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津地方裁判所 昭和30年(わ)324号 判決

本籍並びに住居

三重県安芸郡豊里村大字野田五百十九番地

無職(元中学校長)

沢野敏郎

明治三十八年九月四日生

本籍

三重県安濃郡河内村覚ヶ野千九百九番地

住居

津市新魚町百五十六番地の五

教諭(休職中)

落合敬一

明治四十年二月九日生

本籍

三重県一志郡久居町大字本村甲二千二百一番地の一

住居

津市栄町四丁目六十六番地 小林伸一方

教諭(休職中)

柴田哲雄

昭和七年一月十五日生

右の者等に対する業務上過失致死被告事件につき、当裁判所は検察官宮腰重成出席のうえ、審理を遂げ、つぎのとおり判決する。

主文

被告人沢野敏郎を禁錮一年六月に

被告人落合敬一を禁錮一年に

被告人柴田哲雄を禁錮一年四月に

処する。

被告人等に対し、それぞれ本裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

被告人沢野は、昭和二十三年津市立橋北中学校の校長に就任後記生徒溺死事件発生後間もなく病気退職するに至るまで引続きその地位にあり、同校における学校教育の中心責任者として、その企画、組織につとめると共に、所属職員を監督統率して、必要な指導助言を与えるべき任務を負つていたもの。

被告人落合は、昭和三十年四月、保健体育、国語両教科担当の教諭として同中学校に転任し来り、その当初より副校長とか教頭とか呼ばれている地位に相当する同校総務兼教務部主任として校長の任務全般につき校長を補佐して校長と一般職員との間の連絡調整につとめる等の任務を担当していたもの。

被告人柴田は保健体育、社会両教科の免許を得て、昭和二十七年四月新たに教職に入り、同中学校の教諭になると共に、その当時から引続き同校体育主任として体育関係の校務を分掌し来つたもの

である。

右橋北中学校では、従来学校行事の一つとして毎年夏季に水泳訓練を実施するのを例として来たのであるが、昭和三十年に至り、津市教育委員会において、夏季水泳訓練を同市内小中学校に正課の授業として実施させることとしたため、橋北中学校でもこれが実施の準備をすすめ、同年七月十五日、被告人等も参加して開かれた同校職員会議の議を経て、右実施計画の大綱を決定して居り、同計画は昭和三十年七月十二日付津市教育長名義の「水泳の実施について」と題する通牒に従い、同年夏季の水泳訓練を正課の授業として実施するとの立て前から、同通牒に示されている通り生徒は病気等の身体故障者以外原則として全員参加、教諭も訓練目的の達成と危険防止の万全を期する必要から日直等による校務上の差支え、病気等の身体上の故障ある者以外原則として全員参加を前提として計画立案せられて居り、その大要は、訓練は津市中河原地先の通称文化村海岸において同年七月十八日より二十八日までの間の十日間、いずれも午前中に施行するものとし、参加生徒約六百六十名はこれを男女別にし、さらに水泳能力の有無によつて区別したうえ、可及的にホームルームを中心とした組別に編成するものとし、結局男子七組(内水泳能力のない組三組)女子十組(内水泳能力のない組九組)の全十七組とし、教諭十六名と教諭の手不足補充のための事務職員一名とに各一組を割り当て担当せしめて、生徒の指導と監督に当らせる外、別に陸上勤務者として教諭二名を置き、これに陸上よりの監視、上陸合図救護等の任務を負わせ、さらに組担当職員の指導能力の不足を補う趣旨から、水泳能力も、指導の経験も充分で組担当職員にもならなかつた被告人落合、同柴田の両名を生徒全般に対する水泳実技の指導者と定め、被告人沢野は、組担当教諭の一人若林淀子の担当生徒数が多いところから、その補助を引受けることとし、被告人柴田は右実技指導者としての任務以外に日日の水泳場の設定、その他特に定められた以外の訓練の実施進行に必要な諸般の事務を担当することとしたものである。

ところで右七月十五日の職員会議の席上、列席者の発言検討を経て、判然と定まつた関係職員各別の任務は大要右の通りであるが、もともと右訓練計画は、前記通牒に示された通り関係職員全員の協力の下にその総力を結集してこれが実施にあたるものであるとする関係者等の理解の下に策定せられたものであるところから生徒の指導監督については、組担当職員の外に別に陸上監視員、水泳実技指導者を置いているところからも明かである通り、もとより右組担当職員に責任の一切を負わせる立前ではなく、組担当職員と陸上監視員、実技指導者間の協力を予定して居たのは勿論、組担当職員相互の協力も当然予定せられていたものであり、従つて被告人沢野は前記若林教諭の補助者としての任務以外にその校長としての地位からして当然関係者一同から右訓練の準備、運営等一切の中心的総括者と認められていたものであり、このことからして右集団訓練につき訓練目的の達成と訓練に伴う危険防止に必要な系統的組織を作つて関係職員間に緊密な連絡協調を保たせると共に関係職員に必要な指導助言を与える等の任務を有していたものであり、被告人落合も、水泳実技指導者としての任務の外、その総務兼教務部主任としての立場、保健体育の教科担当者としての地位能力よりして被告人沢野に対しては他の職員以上に必要な進言を為すようつとめなければならぬ職責を有すると共に被告人柴田その他の職員生徒に対しても適切な指導助言を与えるべき任務を有していたものであり、被告人柴田に於ては水泳場設置の責任者として特に流れや、水泳場及びその附近の海底の状態に注意するは勿論、実技指導者、保健体育教科担当者体育主任等の地位能力からして校長その他関係職員に対し活溌に必要な進言、指導助言を為すべき任務をももつこととなつていたものである。

この様にして橋北中学校に於ては予定の通り昭和三十年七月十八日より前記文化村海岸で水泳訓練を開始して居るが、ここにいう文化村海岸とは以前より同校が水泳訓練を行つて来た場所で、津市を貫流する安濃川河口右岸から南方に拡がり、東側の海と西側の堤防との間に満潮時にも普通数十米巾の砂浜を残す一帯の海岸を指し、全般的にはいわゆる遠浅の海でこれまで格別の事故もなく、一般に水泳場に好適の場所として知られて来たところであるが、かかる河口近くの海に往々見られる通り、相当以前よりその安濃川寄りの海底には一部にかなりの深みが存在して居たもので、昭和三十年七月十八日の右訓練開始当時にも同海岸北端附近の海中に始まり、南北に走る同所海岸線にほぼ平行に南方二百米余りのところに至り、それより大きく湾曲して東沖合に向う帯状の俗に澪(みお)と称する深みがあり右澪は殊にその湾曲せる辺りに於て巾、深さ共その北方の部分に比し発達著しく、船底型、乃至は擂鉢型ともいうように凹入していて通常干潮時にも海水をたたえ、満潮時には二米前後の水深に達して居り、周辺の海底もその影響により澪に近づくに従い何程か傾斜を強めて居て、澪の縁辺と認むべきところに至つて、あたかも陥入したようにとりわけ急に深くなつていて、附近が遠浅である関係上、満ち潮により澪が水底に隠れた場合には水泳未熟者には特に危険な場所で、本水泳訓練の場合の如く、水泳未熟者の多い場合(男生徒の約三四%、女生徒の約八四%)には格別警戒を厳重にしなければならぬところであつた。然し前記七月十八日より二十七日までの水泳場はその北限を二十八日のそれより二、三十米も南に置き、同所から南に向う南北の渚の線(以下間口という)で大体六十米位、渚より東方沖に向い水深一米前後のところを標準にして三、四十米乃至五、六十米程度(以下奥行という)までの範囲のほぼ矩形の区域をその沖との境に竹竿(以下標示竿という)を立てて区切り、右区域を南北に二分して、訓練開始の当初の二日間は男子をその北側に、以後は男女の場所を取り換え、女子を北側に入れ、男子側も女子側もその域内に各組相互間の使用場所を特定区分することはせずに生徒を入水せしめ組担当職員を中心にその附近で練習せしめることとしていたものであるが、女子側についていえば欠席者を除いて平均二百名前後にのぼる生徒に対し場所が狭きに過ぐるのと、生徒に組別の目印もない関係からとかく各組入り交つての混泳に陥り勝ちのところへ、各組担当職員間に格別の組織的な連絡、協調がなく、右組担当職員中に相当放任的な態度のものがあつても相互に格別注意も助言も与え合わない等の関係から組担当職員の担当生徒の確実充分な把握はほとんど不能に近いというような状況で、しかも訓練開始の当初から暫くは橋北中学校の水泳場を中心にこれに接してその南側に養正、北側に南立誠の両小学校の水泳場があつた関係から、水泳場の南北両外側に出る生徒は比較的少なかつたとはいえ、意識的乃至無意識的に沖側の外に数米乃至十米前後も出る生徒は日日相当数に上つているにもかかわらず被告人等三名を始め関係職員一同いずれも危険の伴い易いかかる水泳場外への生徒の逸脱防止についてもまた必要な注意を欠きこれを看過し勝ちの有様で、まして監視組織、監視方法の変更改善等これが防止の対策について特別の協議検討をなすこともなく、そのまま予定の訓練最終日たる二十八日を迎えている。そしてその間、橋北中学校より水泳場への往復の近路として渡渉した安濃川に於て一回、生徒二名が溺れかけたことがあるが、右以外格別の事故は無かつたものの、本件溺死事故発生前日の七月二十七日には、水泳場を横切つて北から南へ向う流れのため、水泳中の生徒が全般的に南へ流され、相当数のものが所定水泳区域外に出て居り、南側には幸い前記澪の如き深みがなかつた関係から溺れるものはなかつたが、その際水泳場に在つた職員中には右の如く生徒の流された事実さえ看過したものもあり、これに気付いたものも、右に鑑み流れに対するなお一層の警戒が必要であることに気づいて、他の職員や生徒の注意喚起につとめる等流れに対する特別の配慮を示すものはなかつた。

かくて、予定の昭和三十年七月二十八日の訓練最終日を迎え橋北中学校に於ては同日生徒の水泳能力のテストを行うことを職員間で打ち合せた後、被告人柴田は、例の如く、補助の三年生の水泳部員と共に、一般生徒職員より少し先に同校を出発して文化村海岸に到着し、右テストが南北五十米の間に十米間隔に色旗付竹竿を立て、生徒に右五十米の間を泳がせて各自の水泳距離を知るという方法によることになつていたのと、当日はもはや前記養正、南立誠両小学校は同海岸で訓練を実施していなかつたこと等の関係から、水泳場の設定に当り、南北の間口を前日までより四十米前後拡げて百十米にとり、渚の線から東沖側への奥行を、沖境の深さが一米足らずのところを見計らつて渚より約四十一米にとり、かくて南北に四十米前後長くなつた水泳場の渚の線に平行する沖側境界線を示すに、却つて前日までより少い四本の標示竿を使い、同境界線の北端に一本、それより南五十米、六十米、百十米の所に各一本を一直線に立て、これを順次女子水泳場の東北隅、東南隅、男子水泳場の東北隅、東南隅を示す標示竿とし、右四本の標示竿の内中央の十米の間隔で立てられた二本によつて示された巾をもつて渚に至るところを南北に男女水泳場を分つ境界地帯として居り、この様に拡げられた水泳場の北境は前日までのそれより更に二、三十米北に寄つていて、安濃川河口南岸より南約二百九十五米の位置にあり、その北に寄つただけ前記澪に近づくこととなり、その結果右澪に最も近い女子水泳場東北隅より澪の縁辺までの距離は約三十米に過ぎないといつた位置関係にあつたもので、且つ右水泳場設定時はいわゆる小潮の日の中でも最も干満の少い日の七分満ち前後の潮工合の時にあたつていたのであるが、当日は快晴無風で海面に格別の波もうねりも無かつたのに、右水泳場設定当時既に平常の満ち潮だけに原因する流れとは到底認め得ないかなり強い流れ(強いとはいえ水泳場内に立つているものが押し流されるというまでには至らぬ程度のものー以下異常流という)が前日の二十七日に経験された流れの方向とは、逆に、水泳場をほぼ南より北に向つて流れていて、水泳場準備のため海に入つた水泳部員中にこれに気付いて組担当職員の一人であつた矢部教諭に対しその旨を告げたものがあつたが同教諭は同日の入水前女生徒全般に対し、一応流れのあることを告げては居るがこれに対する注意は充分徹底せず、又同教諭より被告人等その他の職員に対し格別右流れに対する対策を諮る等のこともなく、かくて職員に引率され被告人柴田よりやや遅れて海岸に到着した一般生徒は同所砂浜で点呼、準備体操等を終つて、当日のテストに先だつ体ならしの意味で入水時間を十分とする旨告げられた後、被告人柴田等が水泳場を設定してから約十分後の同日午前十時頃一斉に入水して居り、女子側は入水前の集合場所が当日の男女水泳場の中央寄りのところであつた関係から、自然そこから東沖の方より女子水泳場東北隅にかかる辺りへ向つてほぼ扇形に散開するような形で海に入ることとなり、当日のテストに気負い立つ多数の生徒は浅くて水泳に適しない渚寄りを避けて、多く沖の境界線附近に集り、ここに前日までの境界線外へ出勝ちな傾向に加え、当日の沖側境界線が長くなつた上に却つて標示竿が少く、不明確であつたという事情と職員側の監視が不充分であつたこと等が原因して相当多数の生徒が意識的乃至無意識的に沖側境界線外に出る結果となり、かくて沖側境界線内外に至つた生徒は矢部教諭に告げられた流れの危険性につき充分な関心がなかつたのと、泳ぎ易いままに、折柄の南からの流れに乗り多数北に向つて水泳を試みるうち、その大部分は当日に至つてもなお頭を水につけて僅に進むとか五米か十米程度泳げるに過ぎないといつた水泳未熟者であつたところから、入水二、三分後に早くも内百名前後のものが女子水泳場の東北隅附近の水泳場内外一帯で身体の自由を失うに至つて居りこれ等生徒の水泳場北側への脱出防止のための監視も下充分なところから、多数生徒の女子水泳場北側境界線外への逸脱が看過され、その結果溺れた生徒の一部の救いを求める声に驚いた職員や三年生水泳部員その他が協力して救助につとめたが及ばず遂にその後間もなく別紙記載の生徒三十六名が前記澪乃至はその手前附近において溺死するに至つたものである。

ところで以上記載の所からも明かな通り右溺死は(一)一見しただけでは知り得ないが、水泳訓練実施にあたるものとしての通常の注意をすれば充分知り得る程度の南から北に向う相当急な異常流と(二)右流れの向う方向にあたる水泳場近くの澪乃至はそこに至る迄の或る程度の海底の傾斜と、(三)学校職員側の従前から引続いて事故発生日に及ぶ生徒に対する監視上の欠陥と、(四)それに伴う生徒側の流れ及び澪の危険性に対する認識の不足等が結びついたのに原因するものであつて、水泳はもともと生命の危険を伴い易く、学校等に於ける水泳未熟な多数年少者を対象とする集団的訓練に於ては殊にその危険が大きいのであるからこれが実施に当る職員の側に於ては、充分な組織を作り相互に緊密な連絡協調を保つて生徒の監視に当り、極力その危険水域への接近防止につとめると共に、水泳場を海岸に設ける場合には、たとえそれが遠浅の海といわれるところであつても海底に何程かの起伏は免れないところであるのみならず、本件の場合の如く河口に近いところは、一般に海底の変化が多いとされているのであるから特にその状態に注意し、可及的に危険の多い場所を避けるは勿論、附近の危険な澪のあるときは関係者一同にその所在を周知徹底させ、右場所への生徒の接近を防止しなければならぬ義務があり、また危険を伴うが如き程度の流れについても常に注意を払い、もつて危険防止の万全を期さねばならなかつたものである。

従つて

第一、被告人柴田は、水泳場設置についての当面の責任者として、水泳場内は勿論、その附近周辺の海底の状況や流れに対しては、格段の注意を払わなければならぬ義務があるのに事故発生の昭和三十年七月二十八日には、テストの準備に心を奪われその前日、既に生徒が流されている事態まであつたのに、注意すれば知り得る当日の異常流を看過し、更に前記の澪は同月十八日、一九日当時は干満の関係で注意を払えば容易に知り得たものであるのに必要な注意を欠いてこれをも看過したままに、七月二十八日には水泳場をその設定場所よりも相当南に設け得る余地があつたに拘らず比較的澪に近く、その近いだけ危険の多い前叙の如き位置を選んで設定し、沖側標示竿も僅かに四本を立てたに過ぎず、かくて他の職員生徒に対し、前記澪の位置を明示してこれに対する充分な警戒を求める等の措置をとるに至らず、加えて七月二十七日までの訓練に於て、生徒の水泳場外への逸脱、その他生徒の監視監督上の不備缺陥を眼前にしながら、関係職員に対しこれが防止、改善に必要な進言助言、批判を加える等その職務上必要な措置に出でず、ために、同被告人が業務上必要な相当の注意と用意を以て臨み、前叙の義務を果しておれば避け得られた右三十六名の溺死という結果を発生せしめたもので、同被告人は以上の点から右結果につき業務上過失致死の責任を免れず、

第二、被告人沢野は、本件水泳訓練を総括主宰する地位に在り前記溺死事故発生前日の七月二十七日まで自身現場海岸に臨んでいて、前に記載した如く生徒の水泳場外への逸脱、その他組担当職員の担当生徒の把握、監督の困難とこれに伴うその不充分、不徹底な状況を眼前にしながらその任務に背き、必要な注意を怠つてこれを看過し、各関係職員に対し何等適切な指導助言を与えず、かかる事態の防止、改善のため職員間に一層緊密な連絡協調を求めるとか、監督組織乃至は監視方法を改め、生徒の危険な水泳場外への逸脱防止の徹底を期するに足る手段をとるといつた措置にでなかつたのみか、それが水泳指導の目的に出たものであつたとはいえ、却つて自身一部生徒を伴つて所定水泳場外に出て遊泳を試みるというが如き不用意さのうちに一般生徒の水泳場外への逸脱の傾向を助長せしめるような所為にも出て居り、また水泳場の設定は一応被告人柴田に委されていたものであるとはいえ、自身もその立場上当然海底の状況や水流につき相当の注意を払うべき義務があるに拘らずかかる注意を払えば本訓練開始当初に比較的容易にその存在を知り得た筈の前記の澪を看過して居り、訓練最終日に於ては水泳場が前日までより北方へ二三十米拡がり、しかも標示竿が少く、沖側境界線がわかり難い状況にあつたのに、これを眼前にしながら格別の関心を示さず、また流れについても殊にその前日生徒が南方へ流されている事実まであつてその一層警戒しなければならぬことを知らねばならぬ状況にあつたのに、必要な注意を缺いて被告人柴田にも他の関係職員にも流れについての格別の注意を求めず、ために事故発生当日には生徒の入水以前に既に水泳場内に前日と逆の方向の流れのあることが矢部教諭の耳に入つていたに拘らず、職員生徒に対するこの点の注意の徹底を缺き、それに対する充分な対策を構ぜずに生徒を入水せしめる結果となつたものでこれも被告人沢野の海底の状況や流れに対する必要な関心の不足に由来するものであつて、右訓練の組織者ともいうべき地位にあるものとして責任を免れ難い上、事故発生当日は自身組担当職員の一人太田教諭に代つて生徒を引連れ共に海に入りながら、事故発生まで流れを看過し、テストに勇む多くの生徒が沖側境界線外に出ているのにその防止,引戻しについて格別の指示命令に及ばず、その直後、北に流され水泳場外で救いを求める数名の生徒に気附き、事の重大に驚いたときは、時既に遅く周章ろうばいのうちにその身辺に在つた生徒数名を助けて上陸し、当時、他にも水泳場東北隅の附近一帯で溺れている多数の生徒があつたのに容易に気づかず、ために自身当日担当の太田教諭の組の生徒数名を含め三十六名の溺死者を生ずるに至らしめたもので、被告人沢野に於て右に記載したようなその職務上必要な注意義務を尽しておれば右三十六名の溺死はこれを防ぎ得たもので、以上の点から同被告人はその全員の死につき業務上過失致死の責任を免れず、

第三、被告人落合もまた本水泳訓練に際し、実技指導担当者としての任務に止らず、前叙の通り同訓練が橋北中学校を挙げての重要な教育活動で、全職員の協力の下に、その総力を結集して、これに当るべきものであつたことと、同被告人が同校総務兼教務部主任の地位にあつたこととの二つの関係から、校長を補佐してその職員の統率を助け、本訓練の目的の達成と、これに伴う危険防止につとめなければならぬ任務があるに拘らず、被告人沢野に於けると同様、溺死事故発生前日まで自身現場海岸に臨んでいて組担当職員に担当生徒の把握、監督の困難、乃至は不徹底不充分な事態、殊に生徒が所定水泳場外へ逸脱し勝ちの状況を眼前にしながら、その任務に背いてこれに対し必要な注意を払わず、組担当の係職員に対し、格別の指導助言を与えることなく、校長に進言してこれが改善防止の為、監督組織乃至は監視方法の変更改善を計る等の方途に出でず、また予てより文化村海岸の海底の一部に深みのあることを知つていたのに水泳訓練における海底状態に対する注意の必要性につき充分な関心を払わずして漫然右深みの位置をその実在位置より相当北方の安濃川河口に極近接のところであると即断し、自身格別の調査をしなかつたのみならず、被告人柴田等に対しても、特に海底の状況に注意をすることを求めず、自身また被告人沢野、同柴田に於けると同様、七月十八、九日頃の訓練開始当時通常の注意を払えば比較的容易に知り得た前記位置の澪を看過し、ために被告人柴田始め一般関係職員に、前記澪に対する必要な注意を喚起するに至らず、さらに流れについても前に記載した通り七月二十七日に生徒が流されている事実まであるのにこれに対する警戒の必要を忘れて被告人柴田その他に対し格別注意を求めることをせず、溺死事故発生当日には生徒入水前海岸に至り、水泳場が、前日までより北に拡げられ沖側の境界を示す標示竿の少いのを眼前にしながら漫然これを看過し、かく前日までと変つた当日の水泳場周辺の危険場所の有無とか、潮の流れにも注意を払わず、被告人柴田に対し標示竿を増して沖側境界線を一層明確にすることを求めたり、前日までの如く生徒が水泳場外に出ることのないよう一般職員生徒に注意を求める等のことも為さず、かくて、当日は、男子側組担当の一人松岡教諭に代つてその組を担当することになつたが生徒が入水を始めた頃附近に預けてあつた救急薬を取りに同海岸を離れ、その間に本件溺死事故の発生を見て居て、被告人落合に於て右に記載したようなその職務上必要な注意義務を尽しておれば、本件溺死事故はこれを防ぎ得たもので以上の点から同被告人もその全員の死につき業務上過失致死の責任を免れない。

ものである。

右の事実は〈中略〉

を綜合するとその証明十分である。

なお本件の特に重要と思われる争点について左に当裁判所の判断及び判断の経過を示す。

一、中学校に於ける校長及び一般職員の任務について

中学校長の任務については学校教育法第四十条第二十八条第三項に「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する」と規定せられて居り、一部にこの規定を根拠にして、校長は学校の維持管理に当るところの単なる教育行政の末端機関に過ぎないものであるかの如き論を為すものがあるが、右規定は、教育基本法や学校教育法等関係法規は勿論、教育に対する社会一般の通念をも充分考慮して、解釈せらるべきもので、教育基本法第十条の規定や、学校教育が児童生徒の生長と発展とを助けるためのもので、その性質上形式主義、命令主義となじまず、相当専門的技術的な一面を有して居り、その中心たる校長の教育者としての多年の体験に立つての良心的な活動を予想し、期待するものであること等を考えるとき、校長をもつて教育行政の末端機関に過ぎないものとし、ひいては一般教員の教育活動に対して何等指導助言を為し得ざるものと為すが如き弁護人側の所論は校長の職責の一面をとつて全般とし、その教育者としての使命任務を忘却した議論というべく独裁的であつてはならないが、校長は、「あくまで一校の最高責任者であり、全教員の指導監督を為し、且つ教員の協力を得て児童生徒の幸福をはかり、社会の期待にこたえる」(「昭和二十三年文部大臣通達」「教員の教育活動資質の向上並びに態度について」参照)ようつとむべきもので、校長は学校の行政管理的な任務と共に、所属職員の統率者として職員がそれぞれその職務を適正且忠実に行つているかを監督し教育内容の改善進歩のため、職員に対し事前にも事後にも指導助言を与えるべき任務をもつもので、これに対し一般教員は「各自の職分に全力を注ぐと共に、校長並に同僚相互に敬愛と協力を旨とし、校長の行う教育方針、学校の維持経営等に助力すべきである。なお教員は、自主的且自由に研究討議を行い、相互の修養研鑽に努力すべきであるがこれ等の結果を実施しようとするに当つては、校長の裁量により決せらるべきである」(前記文部大臣通達参照)と解すべきものであるから、前挙示の証拠と併せ考え本件水泳訓練についての被告人等の職務が判示の通りであることは、充分肯認せらるべきところで即ち、本件水泳訓練を含めてあらゆる学校教育活動は校長を最高責任者として全職員が一致協力、相互に有機的な一つの組織体を形成し、その全員の総力を結集して最も有効適切に行われなければならないものと思料するので弁護人側の校長たる被告人沢野が正課の教育である本件水泳訓練の実施にあたつたり、被告人落合が総務兼教務部主任となり、被告人柴田が体育主任となつたり、体育の教科免許を有しない多数教諭が本件水泳訓練に参加したのはいずれもその義務外の単なるサービス行為であるというが如き議論は到底採用すべくもないものといわねばならない。

二、判示澪及びこれと本件溺死事件発生当日の水泳場との位置関係について

津市中河原地先の通称文化村海岸に相当以前から俗に澪と呼ばれる深みがあり、昭和三十年七月十八日橋北中学校に於て水泳訓練を開始した当時の右澪の位置形状がほぼ判示の如きもので、これがさして右位置形状を変えることなく事故当日に及んでいることは検察官作成の実況見分調書三通当審の検証調書三通、証人植田信一、山際保重に対する各証人尋問調書、第五回公判調書中の植田信一の証言記載、第二十七回公判調書中の証人伊藤勇の証言記載、第二十八回公判調書中の証人松尾清兵衛の証言記載、証人鈴木謙一、黒宮弥一の当公判廷に於ける各証言により明かで、被告人等橋北中学校の職員に於て海底の状況に相当の注意を払えば右訓練開始当時既に比較的容易にその存在に気付き得たものであることも右証拠就中右証人植田信一の証言記載により明かであり、本件事故発生当日の橋北中学校女子水泳場の北側境界線が被告人等側の主張するところと異り検察官主張の通りほぼ判示の位置にあつて前記澪の湾曲部と判示の如き位置関係となつていたことも、以上の各証拠と前出証拠標目の二にある証人高角泰夫、寺本徹也、家城富士夫、川崎勝次に対する尋問調書、同三の中にある証人村田勗、前田功、横山睦、黒石昇の各証言記載とを綜合して充分認め得るところである。

三、溺死事故発生当時の流れー特にその始期及び強さについて

第二十八回公判調書中の証人松尾清兵衛、松尾修一の各証言記載並びに証人堀高義、鈴木謙一、黒宮弥一等の各証言と第七、八回公判調書中の証人矢部博の証言記載を綜合すると、事故当日被告人柴田が文化村海岸に水泳場を設定する以前から、既に同海岸を含む津市沿岸一帯に、同所では稀に見る強さの南から北に向う原因不明な流れが襲つて来ていて、これが本件溺死事故発生の相当後まで続いていたことは明かで、検察官所論の如く事故当時の流れをもつて折柄の通常の満ち潮のみによつて生じたものとは到底認め得ないのであるが、以上の各証拠と右以外の前記証拠標目中の一乃至八の証拠とを彼此綜合して判示の通り当日の水泳場設置当時からあつた流れがその後も格別その強さ方向速度を変えることなく溺死事故発生当時に及び同事故惹起の一因となつたものと認めたもので、同証拠その他に溺死事故発生時(イ)突如東方沖合から海水が海面に段をなして押し寄せて来たとか、

(ロ)急に水嵩が増したと述べているもの等があるが、右(イ)の如き事実があれば水泳中のものは陸寄りの方向に押し流される筈であるのに本件破害は却つて沖寄りの水泳場東北隅の外方一帯で起つていて、右(イ)の証言と符合せず、また右(イ)(ロ)の如き海上乃至は海中の顕著な異変があれば相当多数のものの認識するところである筈なのに、右(イ)(ロ)の如き証言は極めて一部のものに限られて居る等の状況に徴し、右(イ)の如き証言は突発的な溺死騒ぎに驚いての錯覚に由来するものと認むべきであり、(ロ)も泳いでいたり、単に浮いていたりしていた者が知らぬ間に深みに移つていたためのものと思われるのでいずれも採用しなかつた次第である。

そして右事故発生時の流れは前記の通り津市地先海辺では稀に見る強さのものであつたとはいえ、証拠標目中二の中にある沼田博子、磯貝絹子、同四にある堀木すみの証言で認められる如くほとんで泳げないというに等しい同人等がいずれも水深等から水泳場外と認められる深さ(同人等の口辺乃至それ以上)のところから自力で脱出して来ていることや他にも同様泳げないもので溺れかけた友人を救つている事実のあること、当日の組担当職員中に海中に入りながら事故発生まで海中の流れに気付いたものがなく、また藤堂宣子教諭以外に溺れたものもなく、同教諭は第十八回公判調書の記載によれば水泳場内で溺れたものの如く証言しているが他の証拠から右は水泳場外での出来事と認められること等の状況から、強かつたとはいつてもその際の流れは判示の通り未だ水泳場内の水深最高一米足らずの場所で立つている生徒を押し流すまでの強さのものではなく、従つて本件の場合各組担当その他関係の職員が生徒の水泳場外への脱出防止に通常要求せられる程度の用意、行動をとつてそれぞれの任務に当るに於ては充分前記澪乃至はその附近で生じた溺死事故は防止し得たものだと認めたものである。なお弁護人は南日俊夫の「津市橋北中学校女生徒水死事件調査報告」と題する論文をとつて当時の流れの強さと共に、右流れが事故発生時突如襲来して来たものであることの立証に供しようとせられるも証人南日俊夫に対する証人尋問調書によれば右論文は専ら生徒を押し流した当時の潮の流れの規模方向等よりして従来不明とせられていたその原因を究明しようと試みたものであつて、学術的な見地からして極めて有意義な研究と見られるも、生徒を水死に追いやつた流れが、弁護人所論の如く事故発生の直前突如として襲来して来たとまで、論定しているものでないことは明白で、却つて右事故発生の何程か前より同様の流れがあつたことが想像せられるとまで証言せられているので、到底右弁護人の所論を支持する資料とはなし得ない。なお同論文に示された流れの速度はその判定の基礎とせられた資料が直ちにその侭全部を採用し難いものである関係上、当裁判所はこれを単に当時の流れが相当強かつたとする、一資料とするに止め、本裁判に於ける被告人等の過失の認定に必要な限度に於て流れの強さを認定し敢て事故時の流れが秒速何程とまでは認定しなかつたものである。

法律に照すに判示業務上過失致死は刑法第二百十一条前段罰金等臨時措置法第二条第三条に該当し、被告人等は判示三十六名の死につき、各自の包括して一つと見るべき過失が原因になつたものとして、それぞれ別個に責任を負うべきものである関係上、各刑法第五十四条第一項前段、第十条を適用してそれぞれその犯情の最も重いと認められる一人の生徒を死にいたした罪の刑に従つて処断すべきところ、本件においては、右犯情の軽重を定め難いので、特にその一を選ぶことをしないが、結局刑を科するについては各自一罪として処断することとする。

よつて情状につき考えるに、被告人等が学校の集団的な水泳訓練の実施にあたり、危険防止の万全を期すべき任務に背いてそれぞれ必要な配慮を缺き、三十六名もの前途春秋に富む多数の若い生命を失うに至らしめ、父兄の付託に背き、世人の学校教育に寄せる強い信頼を裏切つて、社会一般に及ぼした影響の大きいことを考えるときその責任は誠に重大であるから、被告人等に対しいずれも所定禁錮刑を選択すべく,被告人沢野は校長として本訓練の計画面、実施面いずれもの中心的主宰者統括者であり、年若い被告人柴田やその他の職員に適切な指導助言を与えるべき義務あるものとして、責任の極めて重いこと、被告人柴田は事故発生の直接原因となつた流れ、澪、に注意すべき第一次の直接の責任者であること、被告人落合は、総務兼教務部主任として事実上いわゆる副校長乃至は教頭といわれる学校に於て校長に次ぐ地位にあつたものであること等被告人等各自の地位、任務と各目の過失の内容、これと結果発生との間の関係の厚薄を仔細に検討してここに主文第一項掲記の刑期を量定した。然し他面被告人等は「生徒を泳げるようにする」ことを目標にそれぞれ相当の熱意をもつて事にあたつて居り、被告人柴田は終始特に熱心で当日もテストの実施に没頭していて、危険防止に対する配慮を怠るに当つたものであること、水泳場として一般に好適な場所として知られ、従来格別の事故がなかつた場所にあつた少くも当時は相当気付き難い深みと、快晴、無風で海面も極めて穏かで一見何等異状の認められない状況下の相当判り難い上に同方面では極めて稀な急な流れとの不幸な結合が本件事故の重大原因となつていることを特に考慮し、その他起訴を免れた各組担当の職員がその担当生徒の監視監督について、陸上監視の職員と共に第一次的に責任を負うものであること、予算的に恵まれず物的設備、救命具の準備等も意に任せなかつたこと、事故の発生後被告人等がそれぞれにその責任を痛感して死亡生徒の冥福を祈り遺族の慰藉につとめて来ていること等諸般の情状を併せ考えるとき被告人等に対しては結果が極めて重大であるとはいえいずれも刑の執行はこれを猶予するのが相当と認めるので、刑法第二十五条に則つて被告人等に対しそれぞれ本裁判確定の日から三年間その禁錮刑の執行を猶予する。なお訴訟費用については刑事訴訟法第百八十一条第一項但書に則つて被告人等にこれを負担させないこととする。

よつて主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 山口正章 裁判官 黒田節哉 裁判官 西川豊長)

〈以下省略〉

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